運転席からヨーデル スイスの歌うバス運転手
スイスで路線バスに乗ったら運転手がヨーデルを歌い始めた――そんなユニークな体験ができるのが、ヨーデル歌手でもあるサムエル・「サミー」・ツムブルンさん(62)が運転するバスだ。ヨーデルはスイスの伝統的な歌唱法で、2025年12月にはユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産に登録が決まった。その伝道役として活躍するサミーさんを、現地で取材した。
バスがカーブを曲がってやって来た。子どもたちが手を振り始める。運転席に大好きなサミーさんを見つけたからだ。この地方の子どもたちは昼休みに一旦帰宅し、昼食後に再びサミーさんの運転で登校する。
バスに乗るやいなや、「サミー、ヨーデルを歌ってくれる?」とかわいらしい声で話しかけた少年は、縦縞(たてじま)のシャツに牛の飾り付きベルトを締めている。もったいぶるサミーさんに少年は何度も食い下がった。
サミーさんは、最後の観光客が乗車し終わるのを見届けてから歌い出した。車内の喧騒が一瞬で静まる。歌い終わると、余韻の残る空間に温かな拍手が広がり、賞賛の口笛が鳴り響いた。こうしてサミーさんのヨーデルは、いつものように乗客を魅了した。今日サミーさんは、ブリエンツとハスリベルクのブリュニク峠を結ぶ区間を運転する。
バレンベルク野外博物館が見えてきた。「性分ですよ。自分の歌やヨーデルへの情熱を分かち合うのが好きなんです」。この停留所で短い休憩を取ったサミーさんは、噴水の水で喉を潤した。
「マイリンゲンに近いウンターバッハの農家で育ちました。もう子どもの頃から、牛の乳搾りやリッヒェンバッハ谷にあるカルテンブルネンというアルプ(高原の夏季放牧場)で牛の番をしながら歌っていたんです」
夕食後や皿洗い中、あるいは山を歩きながらと、事あるごとに歌う家庭だった。サミーさんは動物や自然、アルプの風景などに感性を育まれつつ成長した。
「12歳の時、当時の人気ヨーデル歌手の歌を収めたカセットテープをもらいました。それを何千回と聴くうちに、自分も立派なヨーデル歌手になりたいと思い始めたのです」
「人生最高の路線バスの旅」
大工と農業を学んだサミーさんは、19歳でリンゲンベルク・ヨーデルクラブに入会する。そのクラブの指揮者に、プライベートレッスンを受け才能を磨くよう勧められた。
「毎日の練習のおかげで声域は4オクターブに広がりました」。そして今から40年前、あるヨーデルフェスティバルでデビューした。
「最優秀の成績をもらいました。1級です」。サミーさんの声には誇りがにじむ。それを皮切りに、これまで数々の賞に輝いた。
運転手の仕事を始めたのもその頃だ。最初は集乳車、次に観光バスに乗った。観光バスの仕事をするうちに人の輪が広がり観光業に接点ができた。観光業はベルナー・オーバーラント地方における経済の重要な柱だ。
サミーさんは、やがてグリンデルワルトやユングフラウ鉄道、そしてスイス観光局の大使役を任されるようになった。世界各地を回るサミーさんの相棒はもちろんヨーデルだ。
「音楽が世界共通言語としてどこでも通じるのは、心がそのまま表現されているからです」とサミーさん。「音楽が伝えるのはハーモニー。だからこそ様々な文化の橋渡しをし、友情を育むこともできます」
ブリエンツ・ブリュニク峠間を走りながら、サミーさんは今日も生き生きと楽しそうだ。自称「歌う運転手」は、ハスリベルクの狭い峠道でハンドルを操りながらマイクのスイッチを入れると、世界各地からの観光客らに「グリュエッサ」とベルンの方言であいさつをした。「私から皆さんにプレゼントがあります」
「気に入ったら持ち帰る。そうでなければ置いて行ってください」。このお決まりの口上を、サミーさんは毎区間繰り返す。
最初は戸惑い気味な乗客も、やがて驚きと喜びの笑みを浮かべる。バスを降りる時には多くの人がサミーさんに感謝の言葉をかける。「人生最高の路線バスの旅」だった、と声を詰まらせる人もいる。
「個人的な情熱を仕事に持ち込める自分は幸運ですし、そこが人に喜ばれているのでしょう」
夢の舞台はエルプフィルハーモニー・ハンブルク
ヨーデル歌手としてもう一歩踏み出すよう背中を押してくれたのは、グリンデルワルトで知り合ったシカゴ出身のアメリカ人観光客だった。
「毎月のように手紙を寄越しては、もうデビューCDは録音したかと聞かれましたよ」
「CDのタイトルは、乗客が付けてくれたあだ名『Singing Driver(仮訳:歌う運転手)』にしました。CDは大成功で、特に日本人観光客に好評でした」
その後2作目、3作目が続いた。3作目の「My Jodlerwäg(仮訳:私のヨーデル道)」はキャリア40周年の記念作だ。サミーさんは今日も彼のヨーデル道を歩み――そして走り続ける。
だが、さしもの「歌う運転手」も、スマートフォンの吸引力には押され気味だ。ベルン市内の高校から来た生徒たちは、サミーさんの歌もそっちのけでスマホに釘付けになっている。
サミーさんは駅で電車が来るのを待つ間、彼らのためにもう1曲歌うことにした。高校生たちはやっとのことで反応らしきものを見せると、サミーさんが歌う姿をスマホで撮影し始めた。その場でソーシャルメディアにアップロードするのだろう。
サミーさんには夢がある。「来年の夏、ミッテルレギ綾ルートでアイガーに登るつもりです」。これまで既にヴェッターホルンやメンヒなど数々の山を登攀した。
音楽関係であたためている構想は「エルプフィルハーモニー・ハンブルクでコンサートを開くこと」だと言う。
エルプフィルハーモニーといえば今や超一流とされるコンサートホールだ。半信半疑の記者らにサミーさんは「エルベ川に臨むあのホールに、私が愛する山々と自然を持って行きたいのです」と揺るぎない。
短いコーヒー休憩が済むと、サミーさんは運転席に戻った。数分もすればバスの中に再びヨーデルが響きわたる。
新しい乗客に向け、まずは例のアナウンスだ。「私から皆さんにプレゼントがあります。気に入ったら持ち帰る。そうでなければ置いて行ってください」
もちろん持ち帰らない人はいない。この忘れ難い体験を友人知人と分かち合うために。
スイスは2024年、ユネスコ(国連教育科学文化機関)無形文化遺産へのヨーデルの登録を申請。2025年12月に登録が決まった。
スイスのヨーデル人口は1万2000人超。家庭やクラブ、学校で継承され、今も親しまれている。
しかし今後の存続を保証するための対策は必須で、無形文化遺産への申請を機に具体策作りが進んだ。全国的ネットワークの改良、育成プログラムの拡充、若い才能の奨励や一般における認識向上などを目指す。
スイスではこれまで、ヴヴェイのワイン生産者たちの祭りやバーゼルのファスナハト(カーニバル)、メンドリージオの聖週間の行列、時計製造技術やアルプスの高原酪農など、様々な伝統が無形文化遺産に認定されている。
編集:Daniele Mariani、独語からの翻訳:フュレマン直美、校正:大野瑠衣子
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